−清渓川 利川陶芸村 海剛陶磁美術館
漢青陶芸研究所 国立中央博物館 など− 韓国の陶芸を訪ねて1.はじめに 今年は韓国に行こう、ということになりました。 まだ続いているらしい韓流ブームに相乗りして、美人と対面したいものだ、 というような不純な願望に突き動かされたわけではありません。 陶芸仲間による「陶芸研修旅行」という生真面目な動機によるものです。とは言え、陶芸の真髄に迫ろうというほどの 気迫が(少なくとも私には)あるわけではない ので、美人に出会ったり、珍しい光景に出くわ したり、うまいものを食べたりすることが楽し みでした。 ←チョゴリの美人(ロッテ百貨店) ↓守門将(景福宮興禮門)
2.清渓川の復元 ソウルに行ったら是非眺めてみたい、という場所がありました。 清渓川(チョンゲチョン)という、ソウルの北部を東西に流れている小さな 川です。 この川は、戦後(蓋をされて)暗渠(あんきょ)となり、高架道路が建設 されました。ところが、2002年にソウル市長が「高架撤去、清渓川再現」 を掲げ、2005年10月に川が4kmにわたって復元された、という貴重 な存在です。
ソウル市運営のホームページで、復元 事業前後の景観を確認してみましょう。 ←復元前 ↓復元後(イメージ図)
今回、私たちが3連泊したホテルは貧乏人向けのDクラスでしたが、何と、 このホテルの眼の前に清渓川が横たわっていました。 早速この川べりを歩いてみました。朝、昼、晩とも、人々が散策を楽しんで いました。
←朝
←昼
←夜 川の両側には、一方通行の2車線道路が設けられています。 道路に面して、電気部品、機械部品、工具、機械などの専門店が軒を連ねて います。 残念ながら、復元後のイメージ図と違い、両側の壁が切立っているので大 きな溝の中を歩いているような感じがしました。しかし、これだけの事業を 短期間に成し遂げた偉業には敬服するばかりです。 3.利川陶芸村 昔、近江には朝鮮半島から多数の人が渡来しました。 政治や文化などの多方面で渡来人が活躍しました。日本における陶芸の発展 は、半島から来た陶工によってもたらされたようです。 ソウルの南東に利川(イチョン)という町があります。 先ずは利川陶芸村を訪ねることになりました。ソウルの東バスターミナルか ら快適な高速バスでおよそ1時間でした。 ■漢青陶芸研究所 今回の同行者の一人が、知り合いから陶芸家・金福漢先生を紹介してもら っていました。そこで、最初に金先生の工房を訪問しました。 金先生は、高麗青磁を復活した海剛先生の一番弟子で、日本で何度も展示会 などを開催しています。
金先生が工房で作陶する様子を拝見し ました。 道具を使わず、指だけであっと言う間に 見事な壷を作り上げる技に圧倒されまし た。 ←作陶の様子
←工房 ↓展示棟
■海剛陶磁美術館
高麗青磁は500年余り韓国で途絶えていまし た。それは、秀吉の朝鮮出兵により、朝鮮の陶工 が多数日本に連れ帰られたためだそうです。 その高麗青磁を、柳海剛(ユヘガン)氏が20 世紀に入って復活させました。 海剛陶磁美術館は氏の窯場に作られたものです。 ←柳海剛氏の像
←美術館 ↓陳列品
■池順鐸窯
池順鐸(チスンテク)氏は、柳海剛氏と共 に利川陶芸村の発展に尽くしてこられたそう です。 氏は人間文化財にも指定されたそうです。 広い敷地に建てられた窯は大変古く、展示 棟などの建物には風格が感じられました。 ←展示作品
←古い窯場 ↓客を見守る白犬
4.国立中央博物館 翌日、国立中央博物館を訪ねました。 景福宮の隣にあった国立中央博物館が、2005年秋に新築移転されたそう です。正面の長さは200メートル位あろうかと思われる大きな建物です。
展示棟は3階建てで、3階の隅に日本 室がありました。 日本室の展示品は、正直なところ、あま り充実しているとは思えませんが、我が 故郷の群馬県から出土した埴輪が展示さ れていたので、よしとします。 ←新しい博物館
←銅鐸(静岡県出土)
←埴輪(群馬県出土) ↓
5.食べ物 今回の旅行は総勢9人でした。 9人ともなると、何か事故が発生し易いものです。着いた日の夜、行列ので きる餃子屋で20分位待って席についたとき、一人欠けていることに気付き ました。日頃「陶芸作品は自分だけがいいと思うものを作ればよいのだ」と いう考えを実践している年寄りの集まりなので、他人のことに無頓着でした。 このグループでは、自立自助の強い精神力が不可欠なのです。 韓国の代表的な料理をいくつか楽しみました。 石焼ビビンバ、焼肉、餃子、小さな鶏の丸煮など、地元の人が入る店で食べ た料理は美味しくて割安でした。飲み物込みでも一人あたり7千〜1万5千 ウオン(約900〜2000円)で堪能しました。裏町の小さな食堂で食べ た朝食は、色々取り揃えたセットで3千5百ウオン(約500円)でした。 しかし、私の心残りは麺料理に出会っていないことでした。 私が「うまい冷麺を食べに行こう」と提案しても、味を知らない同行者は一 向に興味を示しません。そこで、帰りの仁川空港で荷物を預けた後、一人で 高級そうな2階のレストランに入りました。朝鮮ホテル経営のレストランで した。
私は迷わず水冷麺を注文しました。 昔、蒸し暑い夏に来たときに味わった冷麺の 味がいまだに忘れられません。 1万ウオン(約1300円)の水冷麺は、実 に美味しく、満足しました。 ←韓国料理のレストラン 家に帰った途端、主人(妻)の第一声は「臭ーい!」でした。 それからの3日間、2メートル以内に近づくことは禁じられました。 6.思い出のソウル 昔、27年前に、私はソウルに出張で来たことがあります。 当時は南北の緊張が高まっていた時代でした。当時の思い出を今回の体験と 比較してみましょう。 ■空港 金浦(キンポ)空港からソウル市内に向かう広い道路には中央分離帯が ありませんでした。非常事態のときは車の通行を止め、戦闘機の発着に使 うため、ということでした。空港では、訪問先の弁護士へ持参した羊羹の 箱の中まで検査されました。
現在、2000年12月末に完成した 仁川(インチョン)空港からソウル市内 に向かう道路には、全て中央分離帯があ ります。 ←仁川空港から市内への道路 ■灯火管制
現在、ソウル市内は街灯や広告灯で夜 遅くまで明るく輝いています。 しかし、当時は灯火管制が敷かれており、 街は暗い闇に包まれていました。ビルの 中には人が溢れていたけれど。 ←明洞(ミョンドン)の夜景 ■自由化 出張のとき、法律事務所の番頭格のKさんが、丸一日、景福宮など市内観 光の案内をしてくれました。その晩、Kさんがホテルを訪ねてきました。 お嬢さんがイギリスに留学しているのだが、送金してあげようにも外貨がな いので、ドルを少し分けて貰えないだろうか、という相談でした。
当時は、海外送金も海外渡航も自由化 されていませんでした。 韓国で海外渡航が自由化されたのは、 私の記憶に間違いがなければ、1988 年7月です。 ←林立する高層マンション ■ホテル 市庁舎の向かいの一等地に、ソウルプラザホテルがあります。 10年位前に改築されたそうです。私が出張で泊まったのはこの(改築前の) ホテルでした。 あの頃は、会社の名前を背負って一流ホテルに泊まったけれど、落ちぶれ た今はナップザックを背負い、ホテルはDクラスなのだ...(涙)
←ソウル市庁舎 ↓ソウルプラザホテル
7.おわりに 車の多いソウルで、走っている日本車を見つけることは困難でした。 日本車が70%以上、というバンコクと比べれば雲泥の差です。
ソウルでも屋外広告は多いけれど、日本企 業の広告は見かけません。 しかし、日本語の観光案内パンフレットは駅、 ホテル、観光地などに用意されていました。 ←広告で飾られたビル ソウルで地下鉄網が整備されていることに驚きました。 便利だったのは、各駅に3桁の数字が割り当てられていることです。例えば、 130は1号線の30番目の駅というように。また、基本12キロ以内は現 金買いで900ウオン(約120円)と比較的割安です。(但し、4月1日 から基本10キロ以内が1,000ウオンに値上げとのこと) 地下鉄内では、読み終わった新聞は網棚の上に投げ捨てて行くのがマナー のようです。スーツに身を包んだビジネスウーマンらしき若い女性もそうし ていました。 若者は、スマートで背の高い人が多くなったようです。 そういう若者が、電車内では年寄りが近くに立てばさっと席を譲ってくれま す。「最近は若者も少し変わってきています」と韓国人の若い女性ガイドが 言っていましたが、老人を敬う韓国の文化は大切に継承していただきたいも のです。 (散策:2007年2月26日〜3月1日) (脱稿:2007年3月31日) -----------------------------------------------------------------
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